パーキンソン病の介護の話し

子ども視点から見た、介護の世界と老いるということ

皆さんは、介護を経験したことがありますか?

生きている以上、人生のどこかで必ず直面する介護問題。

それは介護をする側かもしれませんし、される側かもしれません。

人によってそのタイミングや状況は様々ですが、私の場合、周囲よりちょっぴり早めに介護をする側として経験することになりました。

当時子どもだった私にできることは本当に少なかったですが、間近で血の繋がった家族が介護されているのを見て、感じること思うことはとても多かったです。

今回は、人生で初めて介護に携わった時のお話を子どもの視点でお話させていただこうと思います。

難病になったおばあちゃん

私の母方の祖母は、私が物心つく前にある難病を患いました。

病気が発覚したのは、おばあちゃんが65歳を過ぎた頃。

元々働き者だったおばあちゃんは、段差で躓いたりお箸や包丁の扱いが上手くできなくなるといった体の不調が現れだしました。

最初本人は、「高齢になったせいだ。」と周囲に話していたそうです。

しかし、それにしては怪我をする頻度が多く、傍から見ていても動きに違和感を覚えるほどの異変があったのです。

何かがおかしいと感じたおじいちゃんがおばあちゃんを近くの病院へ連れていきました。

するとお医者さんから、

「ここでは診れない症状だから大きな病院を紹介します。」

と言われ、県内で一番大きな病院で精密検査をすることになりました。

そして検査の結果、パーキンソン病と診断されたのです。

パーキンソン病

パーキンソン病とは、脳の中枢神経系の伝達物質(ドーパミン)の減少による運動障害を伴う病気です。

手足の震えや身体の硬直、歩行障害などの症状が特徴で、日々の生活に支障が出てきます。

薬物療法によって進行を遅らせることは出来ますが、現在は完全に治療ができる方法が見つかっておらず、日本では難病として指定されています。

病状の進行は比較的ゆっくりとしたペースで、治療方法や生活様式によって変わってくると言われています。

進行する病状と生活の変化

私が物心ついた頃のおばあちゃんは、誰かが付き添い杖を突いて歩いている状態で、家の中では手すりを掴みながらかろうじて自分で移動できる様子でした。

幼稚園から帰ってきた私は、夕方におばあちゃんとおままごとをして遊んでいたことを覚えています。

私にとって楽しい思い出の一つなのですが、実はおばあちゃんにとっても手を動かすリハビリの役割を果たしていたそうです。

後にそのことを担当のヘルパーさんに教えてもらい、そのおかげで比較的長い間、自分のことは自分の手を使ってできていたことを知りました。

 

しかし時は進み、徐々におばあちゃんの病状は悪化、いつの間にか車いすに……。

そしてそこから月日が経たないうちにベッドで寝たきり生活になってしまいます。

その頃になるとヘルパーさんたちが定期的に家に来るようになり、身の周りのお世話や病院への移動の介助をやってもらう機会が増えていきました。

おばあちゃんと大人たちが忙しなく動いている中、私は小学校高学年になっており、友達と遊んだり学校の宿題をやったりと、自分のことに時間を費やしたい時期。

少しずつおばあちゃんと接する時間が減っていき、同じ家にいるのにどこか他人のような見えない壁のようなものを感じていました。

そんな中でも唯一、私がおばあちゃんと接するのが晩御飯後の一家団欒の時。

おばあちゃんと一緒にテレビを観ながら、おばあちゃんの手や足をマッサージしてあげるのです。

寝たきりだと血液やリンパの流れが滞ってしまい、身体的精神的な不調の要因になってしまうためです。

昔からおばあちゃんの肩叩きや手のマッサージはよくやっていて、ヘルパーさんがやっているのを見よう見まねでやっていたのです。

しかしここで一つ、私は失敗してしまったことがありました。

マッサージの手が強すぎて、おばあちゃんの腕に痣(あざ)を作ってしまったのです。

私はそのことに気付かず、後日ヘルパーさんに痣のことを聞かれた母からそのことを知りました。

私は罪悪感で、一時期はおばあちゃんに関わらないでおこうと距離を取っていました。

しかし、親もヘルパーさんも誰も私を責めず、変わらずおばあちゃんに接してほしいとお願いされたのです。

「優しく小鳥を包み込むように」

私はそう教わって、その後はかなり慎重にマッサージをするようになりました。

昔は「少し強いくらいが気持ちいい」と言ってくれていたおばあちゃんでしたが、今は少しの力がおばあちゃんの体を壊してしまう……。

(おばあちゃんのことは大好きだけど、今はもう関わるのは怖い。)

それが当時、私が感じていた率直な意見です。

(おばあちゃんは痛くなかったのかな?気持ちいいと思ってくれているのかな?)

私はおばあちゃんの表情の変化や体温といった少しの変化で、おばあちゃんが感じていることを読み取ろうと必死でした。

ゆっくりとマッサージをしながら、おばあちゃんの細く弱々しくなった腕を見て、老いていくということを初めて実感した瞬間でした。

今まで通りの幸せを守る

私が中学3年生になった頃、おばあちゃんの病状が悪化し、病院で長期間の入院になってしまいました。

家に帰れるのは月に一度。その間に面会をすることは出来ましたが、受験生だった私はあまり頻繁にお見舞いに行けませんでした。

家に帰ってくる時もいつも大掛かりな移動になっていて、私は邪魔にならないように見守ることしかできません。

おばあちゃんは大切な家族ですが、いつも大勢の大人に囲まれて生活をしているおばあちゃんは、当時の私にとって、近いようでとても遠い存在に思えました。

 

私が最後にお見舞いに行けたのは、3月の高校合格を伝えに行った時です。

その頃にはおばあちゃんはたくさんの管に繋がれ、私の名前を呼ぶこともできなくなっていました。

それでも、私の手を握り返し微笑んでくれていたのは今でも忘れません。

 

それから2か月後のゴールデンウィークに、おばあちゃんは亡くなりました。

最後は遠くの存在に思えていたおばあちゃんでしたが、病院の看護師さんやヘルパーさんのお話で、おばあちゃんにとってはそうではなかったと聞かされました。

毎日のリハビリでは、私が子どもの頃一緒に遊んでいた猫のぬいぐるみが大活躍し、おばあちゃんはそのぬいぐるみを私の名前で呼んでいたそうです。

私の存在がおばあちゃんにとって生きる活力になっていたんだと、病院の方たちから感謝された時、嬉しい気持ちと同時に、もっとちゃんとおばあちゃんと接していればという後悔の気持ちが混ざり合い、涙でグチャグチャになってしまいました。

 

私は学生時代に、若いうちはいろんなことにチャレンジし、たくさんの経験と楽しみを見つけるのが大切だと学びました。

そして、おばあちゃんの生き方から、歳をとって少しずつ今までの生活ができなくなってきた時、それまで築き上げてきたものが生きる活力になるのだと学んだのです。

いつどのようなタイミングで、体の自由が奪われるかは誰にもわかりません。

だからこそ、何不自由なく暮らせている今の日常を当たり前と思わず、小さな幸せも見逃さないようにしようと心がけています。

kitsuneko22著